退屈しない日々
DVと発達障害
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間違いを認めるということ
ここ何年か、前夫がたびたび口にする
「自分も早く(発達障害だと)わかりたかった」「療育うけたかった~」

それはつまり、彼の目から見た娘の状態、発育が望ましいものであったり、また、療育所のスタッフさん方と触れ合う時間が、彼にとって良い刺激(学び)になっている、ということだ。


むかしむかし、前夫や私が子供だったころに『発達障害』の概念は無かった。
通常の躾で大人しくできず、破壊行為を繰り返す乱暴な子供を柱に繋ぐことを「虐待」と呼ぶ概念は、芽生えつつあった。
その過渡期。
当時の育児の大変さを想像すると………
ちょっと想像したくない。大変そう過ぎて…( ̄ロ ̄lll)


例えば、親子間、夫婦間の虐待だったり、学校教育になじめない子供だったり、社会的に居場所を失う人たちだったり、
人間関係に問題を抱える沢山の人たちの膨大なデータが、行政の重い尻をぶったたき、平成24年に発達障害者支援法が制定されるまでに、どれ程多くの人が泣いてくるしんだのかと想像するのは…
したくないけど、しておいた方が良いよね。きっと。


沢山のひとの愁いがデータとなり、行政をも動かし、新しい仕組みの整った世界への扉が開いたこと。
そして、新しい方の世界で育っていく娘を見守り、新体制への感謝を知ること。

それは、前夫への良い刺激になったらしい。
「間違いがわからないと、良くならないんだね~」
と、朗らかに語って居たので。



10年近くまえ、前夫と共にする日常の不可解に振り回され捲くっていた私的に
「間違いがわからないと、良くならないんだね~」
この言葉は、Godzillaが出現したレベルの驚きだ。

「間違ってるのはあんたでしょ」
「勘違いでしょ」
等々、絶対に間違いを認めず、挙げ句の果てに
「間違ったら死ななきゃいけないから認めない」
と、ありえない台詞を絶叫しながらヒステリーを起こしていた彼の印象が強すぎて。
なかでも
「死ななきゃいけないから」
この台詞は強烈だった。
あんまりにも予想外だったし、自分のそれまでの人生で触れたことの無い概念で、もう、ものすごくものすごく不思議だった。
たぶんそのときは
「自分のおやつが腐ったら自分ですててね」
と、私が彼に頼んだことが発端で、
彼が(腐ったおやつを食べたせいでの腹痛中にもかかわらず)「そんなの常識でしょ」と逆切れ、押し問答になったんだった気がする。

その後、彼と離婚後に彼の発達障害の診断がおり、娘も診断がでて、娘とともに私も成長する中で発達障害についての知識と感覚を深め、いまなら何故に彼が
「死ななきゃいけないから」
なんて言ったのかは、なんとなーくわかる気がする…

因果の概念を持たないから、間違いに気付くこともできないし、
間違いを認めて、それに対応した新しいやり方を工夫する能力も持たない
それなのに「間違ってるよ」と言われても困っちゃうよね。
「やり直して」と言われても、何をどうすべきなのか説明を貰えず(彼に通じる言葉での説明だ)に何もできず、存在を否定するような罵声を浴びる場面もあっただろうことは想像に難くない。
その繰り返しのなかで「絶対に間違いを認めず意固地に逆切れ」する方法で、自分を護る(現実逃避だし、結局は自分を追い詰めてるんだけどもさ)やり方を身につけて行ったんだろうなぁ。


娘を通して「発達障害者支援法」施行後の世界に触れ、彼の意固地さは随分と影を潜めた。
最近は
「○○しようと思うんだけど、間違って無い~?」
と、療育所のスタッフさんや、私に尋ねることが増えた。

彼を取り巻く世界が変わったことで、彼はすこしずつだけど変わって来た。



間違いを認め、仕組みややり方を変えることは、幸せへの近道を模索することと同義なのかも知れない。



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生きていたい
死ぬのは怖い。生きていたい。

明日になれば、明後日になれば、少しはマシになってるかもしれない。


だけど予想外の困難が襲ってきたとき、私はいつも逃げてしまう。
目の前にある状況を把握し対策を練る事、実行すること、それは簡単に頭がやってくれる。
いままで生きてきてたくさんの困難を経、私の脳内にはたくさんの引き出しがあるから、たいがいのことは処理できる。


だけど、私のこころはいつもいつも目の前の状況から目を瞑る為に自殺の準備をする。
ときには一瞬の油断をついてコトをなしてしまうこともあった。


弱虫でヒステリックな彼女がとても邪魔だ。
死んでしまえばいいのに、彼女一人で。




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ギリギリセーフ
あぶなかったあぶなかった

一個前の日記で、現在の自分の状況をポジティブに捕らえている的なことを書いた。

確かに私の一側面である、「シッカリ者の私」はそのように状況を把握し処理し、そして冷静で強かで在ったのだと思う。

だけども弱虫な方の私はひとっつも納得できていなくて、テキパキテキパキと自殺の準備をしていた。
たくさんの精神安定剤、睡眠導入剤をお酒とガムテープとともに紙袋に詰め、目的地に向かう途中で購入予定のゴムホースとガソリンに足るだけの現金も用意した。

他に忘れ物は無いかな?と、WebBrowserの検索窓に適当な単語を入力し、EnterKeyをタップする。

上から3つめの検索結果をクリックすると、そこは情報共有掲示版などでは無く、個人が開設されている小説サイトだった。

その小説は、自殺癖を持つ母子の共依存生活を描いたお話で、絶望感と深い愛の奇妙なバランスが心地良く、夢中になって一気読みした。


読みながら涙が止まらなかった。
とても大切なことを思い出したから。そしてそのことを忘れていた自身の愚かさが悔しすぎて泣いていた。 


私は昔、息子と無理心中をしたことがある。
息子の存在に支えられて生きている癖に、そのことを自覚できず、日々の疲れに目を曇らせて全てから逃げようとした。

そのことをあんなに後悔したのに、忘れていた… 

母から私の心を取り戻してくれたのも、娘が死んだ日に私を支えてくれたのも息子。

私は一人じゃなくて、誰かに貰って生きている。
くれた人に対して責任があるから…

だから自殺はダメなのにな…。
また負けそうになった。



「あなたの的確な判断力は、あなたの心を置き去りにすることがあって、それが疲れの原因になるから、泣き言を言う時間を取るよう心掛けて」


何度も何度もカウンセラーにアドバイス貰ったのにな。

また、失敗しちゃった。



でも、ギリギリセーフ。
思い出せて良かった。

あの小説を書いてくれた知らない誰かに、ありがとう。


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ことばを失う
声が出なくなってしまいました。

厚生労働省の公式にある、解離性障害の症状の項に失声症があるので、大方それなんだろうと思います。



私は幼少期に受けた虐待と、その後のいびつな人間関係に起因する解離性障害と医師に診断を受けていて、ずいぶん長いこと通院を続けています。

私の周囲の人たちは、私のことを努力家だと言います。
冷静で知的な完璧主義者で、尚且つ朗らかで気遣いのできる楽しい友人だとも。

それは私の一側面に過ぎず、本当は一人では生きていけない弱虫で泣き虫で、不器用な人間です。

でも、そのことを上手く表現できません。

「使えない自分」を表に出すことを赦されず育ったため、そんな自分を他人に見せることに恐怖があります。

「役立たずは死ね」と物心のついた頃から刷り込まれてきたので、その恐怖の度合いというのは、とても高いのです。



でも…
「完璧な私」は、周囲を萎縮させ、心の交流を阻む距離を生むことも知っています。
だから、その外皮を脱いでしまいたいと常々思っていました。
その反面で、今のところは上手くやれているのだから、そんな面倒なことはしなくても良いと甘く考えて、自身と向き合う作業を先送っている部分もありました。

声が出なくなってしまい、色々と考えて、そうして気付きました。

私にとって言葉とは、周囲の人へのサービスツールです。
皆が円滑に物事を勧めることができるよう、その場の空気が楽しめるものであるよう、言葉を選び、声音を選び、それに表情を付加し、状況を演出します。

それは同時に、自分自身を演出することであり、また、本当の自身とは別の見せたい自分の外皮だけを相手にとっての「私」と誤認識させる行為でもあります。

「上手くやれているのだからいいや」
って先送りをしていたら、「上手くやるため」のツールを失ってしまったわけです。

これを、不幸と受け取るか幸いと受け取るのかは私次第。

私は、「幸い」と、受け取りたい。

自分は壊れていることを誤魔化さずに居られる場所を手に入れないと、安心を得られる日も、症状が治まる日も来ないことはしってる。

誤魔化さない生き方にチャレンジするためのキッカケとして、声を失ったんだと、そう、受け取りたい。



自身の覚悟を定めたら、そのアプローチをどのように行えば、周囲にかける迷惑が少なくて済むのか考えることができるはず。



一人では空回りしてしまうから、カウンセラーに相談しないと。

自分自身から逃げていても、どこにも生き場は無いもの。


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自分を信じる
「厄落とし」

と、彼女は言った。


もう10年も前のこと。



私の胎内で娘が死んだ。
産み月まで2月足らずの時期だったので、私の胎内から出てきた彼女は、ちゃんと人の形をしていた。

髪の毛も、小さな爪もきちんと生えていて、「少し肉が薄くてちいさめかな?」くらいの違和感しかなく、いまにも産声をあげそうな姿だった。


でも、抱くと冷たかった…。

彼女は私の胎内で窒息死してしまっていたので。


その件についての母の意見が冒頭だ。

「あんた今年は厄年よね?ちょうどいいじゃない、厄落としになって。」


…あれから10年たち、私は当時の私よりも物事を客観的に見られるようになった。
いま分かるのは、母は人間じゃないってこと。
人の革を被った何かで無いと、こんな言葉は吐けない。


母の世界の中で、母の歪んだ価値観の中で、ずぅぅーっと母のサンドバッグとして在り、自分の心を持つことを許されず育った私は、「厄落とし」の言葉に違和感や哀しみを感じはしても、怒りは覚えなかった。

その感情は、殺されていた。
生まれた時からの洗脳によって。


彼女から離れ、洗脳から解かれ、自分を取り戻せたいま。

わかる。


アレは、人外のモノ。
“鬼”とか“物怪”とか“妖魔”とか、そーゆーの。

小さな違和感が心の底に溜まったまま、それでも彼女との縁は切れずに居た。
…けれども、あの日私の中で何かが弾けたんだ。

「死ねばいいのに。役に立てないなら死ね。」

私は小さな頃から言われ慣れて居た言葉だけれども、それを息子に向かって吐かれたことが許せなかった。


そして私は彼女を拒絶した。
法規を盾に。


自分の価値観、気持ち、感覚。

それを信じて動くようになって、うまく行かないことからも、色々と学べるようになって、いまはとても自由だ。

“私”で在って良いんだと、自分を肯定できること、それが幸せだと、いまは感じる。



自分を信じて前に進んで行きたい。





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